花山法皇は書写山円教寺へ二度行幸されています。一度目は寛和2年(986)、二度目は長保4年(1002)という記録が残っています。
寛和の行幸、それは従者わずかに十数人という「微幸」でした。
法皇は同年6月22日に宮中を出立され退位、山科元慶寺にて御出家されましたが、あわただしく行われたそれらの儀式は、藤原家の陰謀と言われ決して晴れやかなものではありませんでした。仏道に身を置いても真の心の安寧は得られなかったのでしょう。翌月7月21日には同腹の長姉(23歳)を失い、姉弟の全ては死に絶えてしまいます。3年足らずの在位、陰謀による退位、出家、押し寄せる孤独感は20歳に満たない青年の心に大きな傷を与えたことでしょう。院は23日の新帝の御即位の日に都を御出発、27日深夜には書写山麓に御到着され、28日に上人に御対面になります。心の大きな痛みを上人に訴えるため、取るものもとりあえず行幸なったというように感じられます。そして29日には夢前川河口の英賀から慌ただしく船で還幸されました。
その頃の性空上人の名は、書写上人として都にまで知られていました。寛和元年(985)先帝圓融上皇の御病気平癒の祈祷のため朝廷は上人を召されようとしましたが、上人は参内しませんでした。この上ない栄達の機会を「浮雲の栄耀」として顧みなかったことで上人の名は更に高くなります。橘家の嫡男でありながら、霧島山、背振山で修行を積み、京都文化圏の最果てとも言える播磨の山に独り身を置き、法華経の持経者として歩む姿は、俄然都人の注目を浴びることになります。
性空上人は39歳の時には法華経を全て暗誦し、天元元年(978)69歳の折に六根清浄を得られ、永観2年(984)夢に金剛薩埵が現れて直々に胎金の密印を授けられたと伝えられています。これらのことは、院の行幸により更に喧伝され、都人の書写山、上人へのあこがれが高まっていきます。花山法皇は欲望渦巻く都に生まれながら、あっさりと栄華を切り捨て、見向きもしない上人の姿に光明を得ようとしたのかもしれません。
書写山での上人の草庵は粗末なものでしたが、天禄元年(970)如意輪堂(現在の摩尼殿)が建立され、院の行幸の前年に播磨の国司藤原季孝が法華三昧堂を建立し、調直僧その他の衆僧の供料として350石を充てていました。院を追い立てる者もあれば、僅かであっても支える勢力もあり、彼らと国司季孝、藤原茂利等との繋がりも院を播磨に向かわせた理由一つだったと推測できます。
花山院の行幸の年の11月、上人の奏請によって圓教寺号を賜り、花山法皇の御願寺となり、大講堂が造立されました。
西国巡礼の端緒は、この時院に対面した性空上人が、長谷寺の徳道上人が広めようとした観音信仰を伝えたとされています。
その後、最初の行幸から16年の間に院は、徳道上人が埋納したとされる宝印を中山寺で掘り出し霊場を巡拝されました。また、叡山に籠もり熊野那智に修行されます。もちろん法皇が一般修行者と同じように修行されたとは考えにくいですが、襲いかかる孤独感や失望感に耐え抜いてきた院の精神は既に強靱であったと想像できます。
『播州書寫山縁起』より「花山の法皇浜より雨に御幸同御共の体」
16年を経た第2回目の行幸は、前述の通り長保4年(1002)です。前回は陸路でしたが、この度は3月5日に船にて飾磨津に到着され、従者は84人と盛大な行幸です。この頃山上の喧騒を厭い、上人は更に閑地を求めて書写山の北に通宝山弥勒寺を開き住しておられました。この日は暴風雨で一行は難儀して進んだと記録に残っています。途中弥勒寺の前の橋が流されて、院は車を留め置いて向かったとされています。3月6日終日弥勒寺に逗留され、7日に上人を伴って書写山に登られます。この時院は書写山の小松を持ち帰り、御自身と東宮、帝とに各3本ずつを植えさせたという記録も残っています。
書写山の松を都にまで持ち帰り、植えさせるほど上人、圓教寺に焦がれたと考えられ「圓教(えんぎょう)」という寺号にも上人に対する帰依と、院ご自身の希望も感じられます。
花山法皇が詠まれたとされるご詠歌
「はるばると登れば書写の山颪(やまおろし)松のひびきも御法なるらん」
二度目の行幸の暴風雨の中、木々は恐ろしい音を立てて荒れ狂ったことでしょう。この唸りでさえ、仏の声に聞こえたのかもしれません。