マニとは梵語の如意のこと。
天禄元年(970)創建。
本尊は六臂如意輪観世音菩薩で、この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、上人が根のあるままの生木に観音像を刻まれました。
そのために岩山の中腹に舞台造りの建物となりました。
本尊六臂如意輪観世音菩薩は、1月18日の鬼追いの日に開扉されます。
国指定の重要文化財四天王立像もここに安置されています。
圓教寺の本堂に当たる堂で、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場。
室町中期の建物で、食堂、常行堂とともにコの字型に立ち並んで「三之堂」(みつのどう)を形成している。
内部は、内・外陣に区切られており、内陣には釈迦三尊像(中央が釈迦如来、右が文殊、左が普賢菩薩)が安置されている。
(国重要文化財)
本来は、修行僧の寝食のための建物。
承安四年(1174)の創建。
本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。
二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。
未完成のまま、数百年放置されたものを昭和38年の解体修理で完成の形にされた。
現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。
(国指定重要文化財)
常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。
建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。
内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。
(国指定重要文化財)
圓教寺開山の性空上人をまつる堂。
書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核。
現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作。
軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。
(国指定重要文化財)
奥之院の開山堂前にある二つの小さな神社。
向かって右が乙天社、左が若天社。
書寫山の鎮守で開山の性空上人に付き添って仕えたという乙天(不動尊の化身)と若天(毘沙門天の化身)の二童子をまつっている。
同寸同型の春日造りで小規模ながら細部の手法に優れ室町末期の神社建築の特色をよく表している。
(国指定重要文化財)
奥之院の広場を挟んで護法堂と向かい合って建っている。
開山堂参籠の行者の、護法堂への勤行、礼拝のための建物。
寛文に建立された鳥居が護法堂には残っているが、それ以前護法堂には土塀が張り巡らされ、唐破風の門があり、扉は閉ざされていた。
桃山時代の建築物で別名「弁慶の学問所」で知られている。
(国指定重要文化財)
大講堂の東南の隅に土塀で囲まれた姫路城城主本多家の墓所があり廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいる。
五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいもの。
(兵庫県指定文化財)
室町時代の建物、三間四方の小堂でもとは、普賢院という塔頭の持仏堂であったと言われています。
内部には、仏壇を設け厨子が安置されていた、天女の天井絵があります。
もとは茅葺きで、内部の天井は弥勒寺同様に、小組格天井であった。
棟の鯱瓦は日本最古のデザインといわれる。
(国指定重要文化財)
江戸時代の建物、平成4~7年大修理が完成。
建物は仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを会わせた構造、壽量院と共に圓教寺型ともいえる独特の構造を持った塔頭。
内部には、狩野永納筆のふすま絵があり、特別公開時に同時に見られる。
(国指定重要文化財)
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古くには、無量壽院と呼ばれ、承安四年(1174)には後白河法皇がここに七日間お籠りになり観世音菩薩の加護を願われた。
現在の建物は江戸中期の建物で蔀戸(しとみど)や中門などの寝殿造りの古い形式を備え、内部は床や違い棚のついた書院造りになっています。
仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを合わせた構造で、十妙院と共に圓教寺型と言われる独特の構造を持った塔頭です。
(国指定重要文化財)
袴腰(はかまごし)付で腰組を持つ鐘楼で全体の形もよく整っています。
鎌倉時代後期の様式。
平成13年解体修理を終えた。
修理中の調査で、もとは宝形であったと推測されている。
(国指定重要文化財、銅鐘は県指定文化財)
元は往生院の本尊で、1005年安鎮の作。 明治期に大講堂に安置された。
本尊は宝冠の弥陀と呼ばれ、法・利・因・語を含めた五尊で祀られていた。
安鎮は、性空上人の弟子で感阿(かんな)上人とともに彫刻に優れた技能を持っていた。
性空上人像(鎌倉に焼失)、摩尼殿生木如意輪観音像、五大明王像、彌勒寺の弥勒三尊も安鎮の作。
(国指定重要文化財)
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